第五 私の投獄と試練(6)

第五 私の投獄と試練(6)


「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、
神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、
それは喜ばれることです。
罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、
何の誉れになるでしょう。
けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、
それは、神に喜ばれることです。
あなたがたが召されたのは、実にそのためです。
キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、
あなたがたに模範を残されました。
キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、
正しく裁かれる方にお任せになりました。
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。
それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。
キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです。
あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、
今は、自分のたましいの牧者のであり監督者である方のもとに帰ったのです。」
                   
                                 (ペテロの手紙Ⅰ 二章十九~二十五節)



このようなみことばは、実に私を励まし、慰め、
また私の傲慢を挫き、へりくだりを学ばせてくれた。

また、はずかしめを感じる時、
主は直ちに主ご自身がはずかしめを耐えられたことを覚えさせて下さり、
キリストが栄えを捨て、罪人の中に来て下さったこと、
ご自身は何の罪もなかったのに、祭司長・学者たちの手に渡され、
嘲られ、鞭打たれ、緋色の衣を着せられ、いばらの冠をかぶせられ、
罪人とともに十字架に釘付けられたことを思い起こさせて下さった。


主がこのような苦しみを受けられたのなら、
私たちが、最も賤しい僕として赭衣(罪人が着る赤い衣)を着せられ、
獄吏に叱責され、他の囚人達と一緒くたにされることが、
いったい何だというのか。

昔から、神を敬い、国を愛する偉人たちの多くは、
皆、艱難辛苦を嘗め、試練を経て後、業を成し遂げるのである。
このことを思えば、私たちが投獄されたことなどは、
実に九牛の一毛(取るに足らない小さなこと)ほどの試みだと言わざるを得ない。
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by hokkaido-revival | 2010-12-20 20:14 | 『余が信仰の経歴』 正編1-5  

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